心とお金

今年の夏の日の早朝のこと、ある遠方のお得意様から電話があった。

 

その電話は、ご主人が突然未明に亡くなられ、明後日が葬儀に決まり、ついては、夏の着物を着せて逝かせてやりたいが、何とかならないかというものであった。さらに、電話ごしの奥様の様子から、夜が明けるのを待つようにしてお電話いただいたことは明らかだった。

 

私は、とっさに、何とかやってみましょうとご返事をし、すぐに仕立屋さんに無理をお願いすることになった。


そして次の日、お昼過ぎに着物がきれいに仕立て上がり、私はすぐに出来上がった着物と帯を持って、高速で岡山へと向かった。そして、なんとかお通夜の始まる一時間前にお得意様のお宅へ到着することができ、待ちわびておられた奥様は、すぐに着物をご主人に着せられた。


あの時は何とか着物を間に合わせお役に立ちたい一心であったが、今考えると、丸一日で着物を仕上げることや、岡山までの距離を考えると、間に合うかどうかは一つのかけであった。しかし、結果お役に立てることが出来、本当に良かったと胸をなでおろした。


ところで、このように最後の最後まで愛する人を思いやる方がいらっしゃるかと思えば、今の時代、喪の着物を持っていても、着た後始末が大変だからとか手入れにお金がかかるからと洋服や借衣装にする人が増えている。喪の着物を着なければならない人なら、故人とは近い間柄の人に違いないはずだ。大切な人との別れに際し、このような冷静さには怖いものを感じる。


このように最近、とりわけ大事なことにおいても手間とかお金を惜しむ風潮があるが、人々はそんな風潮に慣れる一方で、人の心を粗末にし、人として大切なものをどんどん失っているように感じる。お金のために人の心がすさび、他人に対する思いやりや優しさなどが薄くなる。その結果、社会では、毎日のように今まででは考えられないようなおぞましい出来事が起き、家庭の中においてすら、非常に痛ましい凄惨な事件が増えてきた。

 

確かにお金は大事だけれど、物事の判断のほとんどが、金銭的なフィルターを通してなされる時代というのは、あまりにも寂しい気がする。
拝金主義に走り、優しさを失くした国家、真心を失くした社会、思いやりを失くした家庭、一体この国の人々はどこへ向かっているのだろう。