”のし紙”と表書に思う日本人の知恵

先日若い女性のお客様から、プレゼントの商品で何か良い品物はないかとご来店いただいた。


よくお聞きすると、公私共にお世話になった先輩が遠くへ行かれるので、何かプレゼントしたいということだった。


さらに、着物の好きな方だとお聞きしたので、それならばしゃれもののこんな”帯〆”はいかがかとお見せすると、すぐにこれなら先輩に気に入ってもらえそうなので、この”帯〆”にしますという返事。


後日また来るので、その時までに”のし”をかけて、包装しておいてくださいとお帰りになった。”のし”の表書きは、こちらにお任せしますということだった。


そのお客様が帰られた後、のしの表書をどうするか、はたと考えてしまった。この場合の”のし紙”の表書きは何とすべきだろうか。”感謝”、”薄謝”、”粗品”、”お礼”はたまたこのほかにも何か適当な言葉があるだろうか。


もちろん今までよくしていただいた感謝の気持ちで贈られるのだから、ストレートに”感謝”でもいいのかもしれないが、感謝と言えば、"感謝状"などが連想され、ちょっと外れる気がする。それならば、よくつまらないものですがと贈り物を渡すことがあるが、へりくだって”粗品”はどうだろうか?これも商店のサービス品を連想させる。やはりお礼が一番しっくりくるような気がし、”御礼”とすることにした。

 

考えてみると、今までに私自身、のしや表書きにまつわる失敗談はいくつかある。

 

若い頃、のしについての知識がなかった時、"志”と表書きした金封をある席に持参したことがあった。恥ずかしながら、”志”が弔辞に用いる表書きであることを知らなかった。志は志でも”寸志”とすべきケースだったのだ。

 

また、お客様からのご注文で、婚儀の際の贈答品に蝶結びののしを使用してしまった。もちろん婚儀には結び切りを使用することは常識だし、私自身よく知っていたが、魔が差したというか全くのミスであった。お客様からは、大変お叱りを受けた。

 

また、あるお客様からお電話いただいた時のこと。

そのお客様の旦那様が亡くなられ香典を送ったのだが、その後お返しの品をいただいていた。そこで、そのお礼を言ったが、口が滑って「先日は”粗供養”をいただいてありがとうございました」と”粗”をつけてしまったのだ。確かにのしには”粗供養”と書かれていたけれど、私が粗供養”と言うことはない。全くの失言だった。失礼なことをしてしまったと大いに反省。

 

さらに、”志”関連でいうと、これは失敗談ではないが、ある造り酒屋さんに贈答用にお酒を注文すると、そののしには”粗酒”ではなく”粗志”と書いて配達してくれる。

恐らく自分の所で作った酒は上等で、粗酒とするにはいささか抵抗があり、同じ意味にはなっても、ヘリ下りをお酒にはさせず、差し上げる人の心にさせているのではないかと思っている。

 

 

 このように、のしやのしの表書を、そぐわしく用いるのは、大変といえば大変だ。のし紙の種類も多く、水引にしても金銀、白赤、金赤等々。地域によっても違いがある。宗教によっても違う。昔ならば、慶弔始め様々な行事の、のしや表書についてのしきたりや決まり事など、日常生活の中で自然に身についたのだろうが、今や生活習慣が変化したことで、昔ならば常識であったようなことでも、知らないことが多い。事にあたって、ネットで検索したり、しきたりの本に頼るのは私だけではないだろう。

 

のしだけに限らず、日本には様々なしきたりや慣わしがあるけれど、最近の風潮で何でも省いたり簡略化することが多い。確かにその時は楽でいいように思えても、色々ややこしいことがあとで起こる場合がある。逆にそのしきたり通りに従っていれさえすれば、何も余分なことは要らず、スムーズに事が運ぶことも多い。

一見、古臭い慣わしやしきたりだと思えることが実は、それらの意味や決まりをちゃんと知っていれさえすれば、こんなに簡単で合理的なことはないのかも知れない。

最近になって、これは、物事を円満に進めるための、日本人ならではの知恵なのだろうと思えるようになってきた。

 

美味しいコーヒー、いい着物って誰が決める?

先日、出張先でコーヒー屋さんに入った。いつもの通り満席で、入り口の予約リストに名前を書き、待合で待つことになった。

近くのラックには色々な雑誌が挿してあったので、その中から何気なくコーヒーについての小冊子を取り読んでいると、興味深い記事があった。

「コーヒーはいくら上質の豆を使っていようと、そのコーヒーが美味しいかどうかを決めるのは、お客の方だ」という内容の記事だった。

なるほど、コーヒーを提供する側が、これこそがうまいコーヒーだと思って出していても、人それぞれに好みのコーヒーの味がある。だから、そのコーヒーをうまいと感じるかどうかは、お客によるという意味で、至極ごもっともなことだと思う。

ともするとこだわりのコーヒー店の店主とか、確かに押しつけがましい雰囲気があるのは否めない。自分の店のコーヒーの味に自信を持つことは当たり前のことだけれど、必ずしもすべての人が美味しいと感じるわけではないことをどこか忘れないでほしいものだ。

このようなことは何もコーヒー屋に限ったことではなく、着物の生地を製造する丹後の機屋においても同じことが言えよう。

作り手がこれこそが最高の品質のちりめんだと信じ、情熱を持って製品を製造し、自信をもって製品を市場に提供する。しかし、実際にその着物を着用する人に、その生地の肌触り、風合い、着心地などがどのような受け入れられ方をしているかは分からず、必ずしも満足されているとは言えないのである。

例えば同じ着物にしても、”お茶”など座る機会の多い人が着られる場合と、留袖のように結婚式など限られた席にしか着られない着物の場合では、着物の傷み方も全然違ったものになる。したがって、お茶や、仕事で膝をつくような機会の多い人には、前身頃が擦れるので刺繍や縫い取りのない生地の方がお薦めだし、結婚式やパーティーなどに着られる着物は、より優雅に見えるよう光沢や風合いなどに優れた生地がふさわしいだろう。

だから本当は、最初から着物を着る側の人々のことまで考えたモノづくりができれば一番いいのだろうが、生産者側にに今までそのような想像や心配りが希薄だったように思える。

さらに、生産者だけでなく、実際その辺のことまで考えて着物をお薦めする販売員も少ないだろう。

そういえば、今までに自分自身も同じような過ちをしてきた。

お客様から黒留袖の別注品の注文をいただいた時など、着物の表地、裏地、比翼、おまけに長襦袢に至るまで、それぞれ一番重くて、品質がよいとされる生地を使用した。それがお客様に喜んでもらえると信じ、同時に自分も満足していた。

しかし、今から考えると、結婚披露宴でこの黒留袖を着たお客様は、さぞかし重かったことだろうと思う。あの当時の自分は、”量目の重いこと”イコール”高級・上質”と思い込んでいた。事実ちりめんの量目は、生糸がどれだけ使用されているかということであり、ちりめんの値打ちを決める大きな要素だからだ。

しかし、着るお客様のことを考えると、そこまですべてに重い生地を使用することはなかった。お客様が着やすい着心地がいい着物をお届けすることを一番に考えるべきであった。

昔に比べ着物を着る人が減り、着物を着る機会が減ることで、今まで当たり前だった着物の知識や、よい生地、よい着物について知る人も少なくなってきた。と同時にお納めした着物についてのお叱りもなくなってきた。

だから昨今の着物業界においては何でもありの風潮があるが、そういった時代にあっても、お客様にとって一番よい着物は何かということを常に念頭において、着物づくりをしていかなければならないと思う。

 

着物が消えた丹後の秋祭り

10月の第2日曜日は、丹後のあちこちで、秋祭りがおこなわれる。

 

この地域でも、お昼を過ぎると、かつての村の中心にある石明神という祠の前に村のあちこちの地区から、御輿、神楽、ささばやし、三番叟、太刀ふり、子供御輿などの散楽が次々と集まってくる。するとあたりは太鼓の音、笛の音、御輿の鈴の音や掛け声、人々のざわめきなどが幾重にも重なり、お祭りの昂揚感も最高潮になる。やがて、御輿は村中を練り回り、散楽の巡行行列は、村の中心を通り、神社参道から本殿へ至る。

 

このようにして毎年同じようにお祭りは始まり、同じようにお祭りは終る。

 

 ところで、最近のお祭りで残念なことは、集まる人々に着物姿がほとんどなくなっことだ。今年のお祭りで私が見た着物姿は、散楽関係の人々を除けば、七歳位の女の子と中年の女性のたった二人だけだった。

 

かつては、神社に参拝する多くの人々は男女を問わず着物を着て参拝したものだ。また、着物といかないまでも、正装に準ずるくらいの服装で参拝するものが当たり前だったような気がする。しかし、最近では着物どころか普段着でお参りする人を見かけることが増えた。このようなお祭りに参加する人々の衣服の変化から、逆にお祭りを人々がどのようにとらえているかを伺い知ることができる。

 

そもそもお祭りは村人にとって特別な行事だった。 それぞれの神社のある地域の人々は、子供が生まれればお宮参りをし氏子になる。やがて七五三、成人式、初老、還暦・・・と人生の節目々にはかならず神社へ参る。また、地域に災いが続くようなことがあれば村人はこぞってご祈祷をうけ地域の安全を祈願する。このように神社は常に地域を守る社として存在し、神様と村人たちとが常に身近にあった。

 

そういう中で年に一度の大祭はその地域の人々にとって特別なものであり、神様に敬意を払う意味できちんとした身なりをして神社へ参るのは当然だった。

 

 ところが最近では、人々のお祭りのとらえ方は、神事というよりもイベント的な感覚が強くなってきたのではないだろうか。イベントならば、平服や普段着で参加しても、何ら問題はない。

 

確かに時代が変わるほどに、人々のお祭りに対する思いが変わるのも仕方のないことかも知れないが、お祭りを神事として厳粛にとらえ向き合う気持ちは変えてはならないと思う。

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"五輪の開会式はきものを着るべき?"

先日、ロンドンオリンピックの開会式の入場行進を見ていた時のこと。商売柄どうしても、各国選手団の衣装が気になった。

アフリカの選手たちが着ている民族衣装、デザインはもちろん、何とも色が美しい。恐らく日本のどこの洋服売り場にも、決して見つけることができないような色。例えば黄色系の色、普通の黄色ほど浅くなく、黄土色と言えるほど弱くなく、まあとにかく初めて見る色。そして、黒人は、我々黄色人種とは違い、どんな色でも本当によく似合うものだなあと感心をする。

一方白人は、目の覚めるような赤やグリーンがよく合い、自然に着こなしている。さらに、イタリア選手団を見た時、さすがイタリア、紺のブレザー、ストライプのネクタイ、そのままビジネス旅行でも行けそうな、おしゃれで品のよいコスチュームだ。

そして、アルハベットの”Aから始まった入場行進もいよいよ”J”になり、日本の選手団が入場してきた。私は、彼らの姿を見た時、一瞬、競技の審判団が入ってきたのかと思った。赤のブレザー、白のボトム。恐らく有名なデザイナーが今回のオリンピックのためにデザインしたものだろうが、もういい加減にこのパターンから抜け出してもいいのではなかろうか。

それより、なぜ、こんな時着物を着ないのだろうか。日本には、立派な民族衣装があるというのに。着物を作るには値段がかかりすぎるなら、レンタルでもいいじゃないかと思う。

今までに民族衣装で登場したアフリカの数々の選手団、どこか着物に雰囲気の似たブータン、フィジーの堂々とした出で立ち、彼らは自国の衣装に身を包み、誇らしげに行進していた。彼らと同じように、自国の伝統文化である着物を着て行進すれば、世界に日本をアピールする絶好のチャンスになれただろうに。

何もオリンピックに限ったことではないが、日本には、古来より優れた文化や慣習があるのに、そのような自国の伝統的な物を軽視する傾向があるように思える。

ところでオリンピックから離れるが、WBCの日本代表選手を”さむらいNIPPON”とよび、女子サーカーの日本代表選手を”なでしこJAPAN”と呼ぶ。しかし、今の日本に”侍”の精神を持つ人がどこにいるのだろうか。政治家、官僚、大企業のトップはもちろん、末端の人々まで、何かあれば、責任を取り腹を切るぐらいの武士道の精神を受け継ぐような気骨のある日本人を見たことがない。また、”大和なでしこ”と言えば、繊細で可憐な花だが心が強いという意味なのだろうが、もはや家庭や学校や社会で大和なでしこのような女性を育てることなど理想ともされていない。

そんな実情に反し、もはやほこりのかぶった”侍”だとか”なでしこ”だとかいうことばを今時分ひっぱり出してきて、チームの名前の頭に付けてみても、こっけいとしか言いようがない。
そんなことをつらつら考えると、普段着物を着たこともないのに、オリンピックの入場行進に日本人選手団に着物を着せるべきだといっても、どうも”さむらい----”と、”なでしこ----”の二の舞になってしまいそうだ。

ならば、これからもオリンピックの日本選手団のコスチュームは、ゲートボールの審判員のようなユニホームを毎回一流と言われるデザイナーにちょこっと手を加えて作るのが、今の日本をもっとも象徴しているのかもしれない。

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薄味の時代

色見本
色見本

今、新商品の着物の色選びをしている。いくつかの色を候補に挙げたが、参考に十五年以上も前の同種の着物の色見本を出してきて、今の色と昔の色を見比べてみて驚いた


昔の色は、一見してこの色は紫、この色は青、この色はピンク、この色は... と答えられる色ばかりである。しかし、現在候補に挙げている色は、紫がかった青だとか、緑味のあるグレーだとか、藤色がかったピンクだとか、とにかく全ての色の名前に、頭に説明が必要な色ばかりで、単純に何色と答えられる色は一つも無い。

 

このように新しい着物のために選んだ色は、今の時代に最も受けいらられ易い色をと探した結果であるが、これを見ると、今の時代は、どうやらはっきりした色が好まれない時代だと言えるのかも知れない。


これは、何も色だけにに限ったことではなく、現代社会のあらゆる面で、はっきりしたものや”~らしさ”が好まれない傾向が出ているように思う。あくの強いもの、個性の強いものは嫌われ、みんな同じような中で、わずかに違いがあることがどうやら価値があるようだ。政治、経済、文化、あらゆる分野でその傾向は強まってきていると感じる。


例えば各政党間の違いも良く分からないし、車や電化製品のデザインにも個性が感じられない。テレビでも、最近男だか女だか分からない人がやたらと目立つようになってきた。食べるものでも、ケーキや和菓子を食べてさっぱりしていることやあまり甘くないことが、おいしいというほめ言葉になっている。


また、社会全体が濃密な人間関係を嫌い、クールといえば聞こえがいいが、お互い不干渉かつ無関心な社会がすっかり出来上がってしまった。人間関係も希薄になり、隣近所の人と助け合いながら仲良く付き合っていくことも少なくなり、家族関係も、利己的で、昔のように家族が全員で行動することも少なくなり、それぞれがバラバラといった感じがある。


このように、全ての分野において、あっさり、さっぱりの薄味が好まれる現代というのは、例えれば、ご馳走を食べた後の、お茶づけと同じではなかろうか。そう考えると、もはやメイン料理は昭和で終わりを告げ、平成の現代はお茶づけのように〆の時代にでも入っているのだろうか。


しかし、このまま終わるわけにも行かないので、もうそろそろ〆の時代にはきっぱり別れを告げ、今度は新しい料理のメインディッシュのしっかりした味を求めても良いのではなかろうか。来たるべき新しい時代には、是非人間味が濃い世の中になってほしいものだと思う。

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